そして写専時代
今日は雪が降っています。金曜マッチもキャンセルなのでつれづれに・・・
卒業を前にして 写真部仲間のカメさんから良いハナシがありました。彼の父さんがクリーニング業をやっており、中野区のクリーニング組合の会報誌を作って配るのでボクにやらないかというのです。月に一度の会報を作って自転車で各クリーニング店に配達するという仕事です。クリーニング業のオーナーたちが文章を書き、それらを集めてディザインし 鉄筆で刻字して謄写版で100枚ばかし印刷するという仕事です。高校時代に文字を読みやすく書く練習をしていたのでソコを認められたのです。クリーニング屋の新聞というワケで 決められた締切さえ守れば出勤も退勤時間も自由という有難い仕事です。これなら念願の写専(東京総合写真専門学校)に通えるだろうと亀さんの父さんは優しく言ってくれました。カメさんは高校を通じての親友で同じ写専の昼間部に通い、ボクは夜間部に通うというハナシになっていました。ここで貯金をしてペンタックスに続いてマミヤの6x6を購入、数ヶ月を経ていよいよ入学です。喜び勇んでカメさんの父さんに学校が始まるので通いますと報告しました。それまでのボクは独りで仕事を完璧にこなし 失敗もなければ出版が遅れた事もありません。
「学校? それは困る、そんなこと言ったこともないよ」
なんと、父さんはそう言うのです。
カメさんは約束が違うと怒って父さんに食ってかかりますが、理由の説明もなく通学は許さないの一点張り。やがて父さんは癌に罹り五年後に亡くなるのですが・・
そんなことでボクは途方に暮れてしまうのですが、まだ兄の家に住んでいたので写専に入学しました。バイトの収入だけでアパートに住んで夜間学校に通うというのは不可能で、兄が引っ越したら住み込みで働くしか道はありません。もちろんクリーニング組合の飼い殺しは拒否!!
こうして写専に入学です。
新宿区にあるとはいえ すごく古びた校舎、というより倉庫のような建物で知らなければ学校だとは想えないほど。でも、下見はしてあったので失望どころかボクの気持ちは燃え盛っていました。なあに、プロになれなくても死ぬわけじゃない、店員にでもタクシー運転手にでもなるさ!! 周りを見回せば世界には様々な働き場があります。
さて、6時からだったでしょうか、夕刻になって指定された教室に入ります。ところが学生が大勢いて座る椅子などないのです。座りたかったら早く行き、遅かったら立ち席で教室の後ろも横も満員電車のようにぎっしりではありませんか!!
なんの先生だったか、挨拶があります。
「皆さん生徒数が多いので驚かれたでしょうが、しばらく我慢していただければ皆さんが座れるようになりますよ。ここにはプロを目指して入ってきたのでしようが、とても厳しいので どんどん脱落して二年後の研究科まで残れるのは20人いるかどうかなのです」
そう聴いて見回すと70人ほどの生徒数。はぁ、やはりそうなんだと納得です。
こうして授業は始まりました。
キャメラとレンズの構造、現像と引き伸ばしに関する感光材料、写真は何のためにあるのか、撮影前の問題意識、モデル撮影、ライティングの基礎などなどすべてが興味深いのです。夜は酒など飲みながら野球放送やお笑い番組を見ているのが普通の社会の片隅で このような学びの世界があることは素晴らしいと感じていました。そうこうしているうちに恐怖の合評が始まります。がっぴょうとは合同評価のことで、有名な写真評論家の重森校長のクラスです。経験者たちは「恐怖の合評」と言ってます。どうするかと言えば、授業が始まる前に生徒たちは持参した作品を壁に貼ります。そこに校長が現れて京都ナマリらしい言葉で評論をするのです。
なんだこれは!! ピントがぼけとるやないか!! こんな写真持ってくるなっ!!
これはどういう意図で撮った?・・画面からは何も伝わってこんぞ!! 早いうちに辞めたらどやっ!!
イキナリそんな脅しがかかります。
凍りつくとはこのことです。緊張した生徒たちを前に重森校長はそれぞれの作品をクソミソにケナしていきます。
ボクの番が来ました。風景やポートレイトを5点だったか貼ってあります。校長はすっすっすっと観て、再び眺め、下に書いてある名前を読みました。
ナガタ・・
はいっ
この顔半分しか入ってないクローズアップ、どうして撮った?・・なんで顔全部を入れんかったんだ!!
・・・・・・・・・・・
ボクは言葉を出せません。なんでって、理由なんかなくてナントナク撮ったワケで思考など働いていなかったので・・
すると校長は、次のフォトに移り、なんでこう撮ったんやぁ!!
この連続です。
ボクはいっさい無言でした・・
他の生徒たちは大人ばかりで、高校出てすぐの生徒はいませんでした。そして彼らはソレナリに自分の作品の意図や理由を説明しています。
いきなり殴られ、ボクは消沈しました。今後どうやってしがみついて行けるのか、自信を失いました。
休み時間に廊下に座って壁にもたれて俯いて考えていました。合評は毎週あります。毎回提出しなければなりません。
作品を作るのに理由や意図が必要で、それを説明しないとならないなんて考えたこともありません。ただ心の中で泡のように沸いてくる衝動のようなものに駆られて撮影していたわけで・・・
すると俯いた視界に靴が現れました。誰かが目の前に立ったのです。見上げると講師の補助をする助手でした。写専の卒業生です。彼はボクの横にペタンと座ります。
びっくりしたんだね・・いまさっきね「久々に秀逸な生徒が来たぞ」って校長が言ってたよ、君のことだよ、しっかり続ければ大丈夫だよ・・」
この言葉はとても救いになりました。後で判ったのですが、校長は言い過ぎたと感じて助手に慰めてこいと言ったようで・・
そして次の合評からは校長はボクだけには優しく、ホメ言葉も・・
見ろよ永田の写真を、構図が決まっとるやろ、そんでピントがビシッとシャープで描写が克明だろが。内容云々の前に、技術が高いだけでもこんだけの説得力があるんや・・
そして予言通りに受講生はズンズンと減ってしまい2ヶ月ほどで半分になりました。やがて生徒のうち数人は校長宅に呼ばれ、彼の悩みを打ち明けられます。
プロになるには才能と根性が必要やから、ダメそうなやつは早くフルイにかけて落としてやらんと時間とカネの無駄で本人のためにもならんのやでぇ・・けど、ダメや想うても後で伸びるヤツもおるんで気をつけんとあかんのやぁ・・・
こうして合評でボクが作品を張ると生徒たちが集まってきてシゲシゲと長いこと眺めるようになりました。
しかし・・
ボクは休学届を出します。
兄が郡山に引っ越すので、住む家がなくなり資金も無くなったのです。兄は大学行くなら補助してやると言いますが、ボクは自分で乗り切れないようでは先々で転ぶに違いないと考えて補助を断ります。
「苦労は買うてでもせい」
これは姉が作った家訓でした。
性格的に、ボクは人の世話になるのは自分を許せないのです。高校を出してもらった、これ以上を求めるべきではありません。
渡米してから判るのですが、アメリカの中流家庭のフィロソフィーも同じでした。
子供が高校を出たら「ドアイズゼア」ドアはそこだ(出ていきなさい) と言って子供には独立を促すのです。
まず職安に行きます・・・
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射撃は週に2〜3回、その間はゆっくりしながら過去のことを書いたり激動世界のニュースを漁っているんですけど、ここんとこイヤな二ェースが多くて気が散ってしまうんですよね💦
ほかでもない、トランプのこと・・・
粗野な性格でカネのことばかり言って人々の心の襞を読めない男ながら民主党の政治家たちよりはマシで、何よりも良いことは銃規制に反対している事で・・銃を取り上げられたら射撃のできる国か屋久島にでも住むしかないと考えているボクにとってはソコだけがトランプのトリエで。
ゼレンスキーをホワイトハウスから追い出した時は、なんと短絡的なヤツで底の浅さ丸出しで。
そして数日前のコレっ!!

ホワイトハウスの前にテスラを並べさせ

大々的な宣伝

俺も一台買うんだ、と・・
庶民にとっては大金の支出ながらトランプにとっては20ドルのオモチャみたいなもの。
ボクから観たらテスラは「未完成車」でカネの余った人が趣味の2台目として購入するモノだと。アメリカの都会地ではよく見かけますが、郊外とかウチのあたりではメッキリ少なくなっています。その原因はバッテリー性能で、たとえばミッキーさんもトヨタのタンドラと共に乗っていますけど、ちょいとフレズノを回ってジョージさんとこを回って帰ろうとすると もうバッテリーが心配になり、チャージするにも近くにはステイションがなく、そこに寄ると30分は車内で所在なく待たされ。マリポサ ガンショップの客がテスラを買って大喜びでロサンジェルスに行ったら往復500マイルで充電時間がトータルで2時間もかかってコリゴリしたと。ガス車ならば片道4時間でスッと行けるのに充電で1時間も待たされ、これでは遊びにしか使えないといったウワサが広がっており。
ただ、ミッキーさんは昔からソーラーを設置しているので家での充電費はかからず 1時間で行けるフレズノくらいへの買い物程度で遠出をしない生活の人々には向いているのですが、ウチのようにLAだベガスだアリゾナだユタだと遠出の多い家庭だと使い物にはなりません。
未完成とはバッテリーの事で、満充電で実質1000マイルも走るバッテリーを作れたらソノ国の経済は豊かになるのは必定、ジャパンには気張ってほしい!!
で、トランプがちょっとウサンくさいイーロンを庇うためにホワイトハウスでテスラの大宣伝をしたのにボクは呆れましたよ。ここんとこテスラの株価が急落しており、米国の官公庁みたいな所でもテスラ株を買っているとかで、ただでさえ借金苦で危ない米国経済への打撃を防ぐためなのかテスラの大宣伝😤
これではトランプ嫌いが増えるばかりかと。
ゼレンスキーとの会談でもトランプはフトコロの浅さを露呈、ようやくプーチンとの交渉に辿り着くようですが、果たしてプーチンは乗ってくるかどうか。占領地の全州ゲットとウクライナのナトー入り禁止の約定くらい提示しないと締結は無理だという気がします。
なんだか怒っての殴り書きでした😅
本日の雨は雪まじりに・・⛄️
ところでミーやん、
アメ車には色々な車種があるけど、どれもダメそうだけど強いてマシなのはどれかなぁ?
義兄のジャックはVWとトヨタのトラックに乗っており、どうして国産車にしないのかと聞いたらアメ車は絶対に信頼するなと言ったよ。知り合いが新車を買ってグラージに停め、翌日乗ろうとしたら床がオイルびたし、見るとエンジンオイルがすべて流れ出していたんだと💦
ボクはシェヴィのバンに一目惚れして買ったんだけどオイル漏れがしているのでディーラーに持ち込んだら「これは典型的なシェヴォレイの特徴だから心配するな」と😤
若ゲのいたりでコルベットを買いたいと想っていた頃、射撃仲間が乗ってきたのでカッコイイナァと言ったら「買わない方がいいぞ、買ってすぐの走行中にトランスミッションが落ちて酷い目に遭ったんだから」😮
そこでディーラーに行って飾られている新車のエンジンの下を触ったら手にキレイなオイルが💦そしてその下には小さなカーペットが敷いてありオイルで濡れていた。トヨタではどうかといえば、カーペットなど敷いてなく、何十年もの間オイル漏れを見たこともない😄
そうそう、アメリカの期待を背負って日本をやっつけるための小型車だったベガに乗っている人がいたので、どうだいと聞いたら、高速の休憩所ごとにエンジンオイルを1缶入れないと焼きつく以外はなんとか走ってると😱
今、日本人はアメ車を買わないとトランプが怒っているけど、ホットキなさいね。レインタカーでたまに乗るけど、いまだに好きになれないんだよ💦
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今日は雨でね・・これから3〜4日は降り続くそうで雪も降るかもしれんとさ・・寒いのでストーヴの前でくつろいでるんよね・・
中学では楽しい事はアンマシなかったけど、胸が熱くなってソレは今でも美しい光景として残っている出来事があったんだよ・・
あの時の事をちゃんと記憶に留めるためにアサヒ フレックスを飼っているんだ・・250ドルもしたけど、こんな骨董品など大した価値は無いけどボクはこいつを見るたびに心がホカホカと温まるんだよ・・

ボクは鹿児島市にある甲東中学校に通っていたんだ。甲とは西郷さんも遊んだ甲つき川のことで、その東側にあるからコートー中学なわけ。ちなみに西郷隆盛がその川でウナギを手掴みするシーンがNHKのドラマであったけど、あんなのインチキな嘘っぱちの無知のデタラメ😠野生のウナギってヌルヌルしていてチカラも強いので人間の手で握ることなんかできないんだよ。父とボクは甲突川でウナギを獲っては蒲焼屋に売って米を買うという生活をしていたのでウナギのことには詳しいんだよ。どうやって獲るかと言えば、箱に藁などを詰めて沈め、流れないように上に石を置き、翌日または二日後に箱を砂地に運ぶわけ。そして箱を逆さにすると立派なウナギが多い時は5〜6匹出てくるんよ。そしてウナギは猛烈な勢いで暴れ、いくら両手で掴んでもスルルっと抜け落ちるんだ。だから網などで捕まえてビクに入れる。しかし、ボクはなんとか両手で捕まえたくてよく考えた。そして思いついたのは 濡れ手に砂を付けて掴んだら紙ヤスリ効果で掴めるのではないかと。そして実践してみるとうまく出来、そして砂を握りしめた状態から中指と人差し指を立てて胴を握るとサスガのウナギも逃げられないと判ったんだ。川で泳いでいたり岩の下にいるウナギを素手で獲るなんてムリムリムリの無理!! そういう場合は短い釣り竿で釣るのがいいんだよ。
話がソレたな、でもミーやんが文字数など気にするなとUたけんなぁ(^○^)
その甲東学校に教生の先生が2人きたんだよ♪
先生の見習いで、たぶん大学生。教室の前でハニカミながら笑っている2人は子供心にも眩しいくらい美しく、貧乏人のボクは目を合わせるのも恥ずかしかった。
それほどの接触もなしに日々が過ぎたある時、校舎の角を曲がると2人が記念写真を撮り合っているところだった。2人はいつものようにニコニコしており、うふふふと小さな声を出したりしていた。立ち止まったボクの目は、2人が交代で撮りあっているカメラを追い続けていた。アレ確か店に飾ってあったな・・たしか高価なヤツだったな・・そうか上から覗くカメラなんだな、どんなふうに見えるんだろう・・すごいなぁ・・
ボクは、その形の良いカメラが美しい2人に似合っているようでワクワクしながら見ていたよ、すると!!
ナガタくん、私たち二人を撮ってくれる?
まずスラッと名前を呼ばれたことに驚き、撮ってくれと言うことはカメラを触れることだと想ってびっくりした。もうホントに驚いたよ。貧乏人の自分は誰もボクに話しかけてはこないと自覚していたせいで・・。スフという粗末な生地で作られた学生服は洗ったことはなく鼻水を拭くためにソデはテラテラに光り、風呂にも入れないので自分でも臭かったのだから。永田くんは臭いからアッチ行って、と言う女のグループもあったし。
それなのに、この眩しい2人はボクに写真を撮ってくれと頼み、カメラを渡してくれたのだ。
はいっ!! 使い方を教えてください・・
そう言ってボクは、落としちゃいかんぞと想いながら受け取った。そして言われた通りにフォーカス用 レンズでピントを合わせ、合焦を確認してレンズを押し下げて構図を決めてシャッターを押した。なんて素晴らしいカメラだろうとシゲシゲと眺める。
アサヒフレックスというのよ、お父さんから借りてきたのよ。彼女はそう教えてくれた。
こうして82歳になって眺めるアサヒフレックスは、何も古臭くはなく、いくら時代が過ぎても新鮮で美しい。
タイタンはこのキャメラの解説してよね。
うん・・たったソレだけの想い出だよ。
たわいもない、とるに足りない出来事だ。
でもね、このキャメラはベッドルームのガラス棚に飾ってありイヤでも毎日目に入り、時々ボクはこれを指さして、よっ♩と挨拶するんだよ。
あの2人の教生のお姉さんたちに向かってね・・・
心の財産、というワケ。
センティメンタル ヴァリュウ
心における価値、とうワケなんだ。
これ書いてるからうちに想い出したんだけど、実はもう2人のすばらしい女性に逢ったさ・・
1人はトクナガさんというクラスメイト。
もう1人は新しく赴任してきた音楽の先生。
でも、こんなトリトメのないハナシ、読むのイヤだよね。書けと言って欲しいけど、ジェッタイに読むのイヤなんだよね・・そうだよね? こういう実話はボクの人格形成と価値観の構築に大きく関わっているんだけどなぁ・・・
😄
その頃、ボクは図書館からノベ30冊ほどの小説を借りながらムサボリ読んでいた。アルセーヌ ルパンとシャーロックホームズだよ。これらは極貧のボクに偉大なる夢を抱かせてくれ 空腹に耐えながら眠るにしても、これらの未知なるストーリーを空想しながらスヤスヤと眠ることができたんだよ・・・
そんな状況ではクラスの女たちに好かれるワケはなく、嫌われているのを受け入れるしかなくて近くに寄ることも避けていた。
しかし、そんなボクに微笑みを送ってくれる中2のクライスメイトがいたんだ。まさか、と初めは想っていたんだけど気のせいではなかった・・・
えっ、あっ! 読みたくないんだっけね・・・😅
バイバァーい・・・・・・
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S&WのM&P(ミリタリーポリス)は5.56mmのAR-15ですけど、その22口径版の15-22というモデル、のパフォーマンスセンターによる特別仕様ライフル。
仲間のリッチさんが持っていて一目惚れ♪ ケニィに買ってやった同モデルは廉価版でオモチャのようだったのでガンショップに売り、コレを譲ってもらったのです。
これを使って22口径ライフルのコンバット能力を追求しようと楽しみにしていたのですが忙しくて忘却。前回は6倍スコープを使っていたのですが、考えを変え 距離を50mまでと限定して再テストを始めたのです。

22口径ライフルの人気は高く、すごい数の機種があります、けどAR15そのままの姿で25連発で残弾が外から判るというM&Pは とても魅力♪

こんな楽しい銃の能力を追求スル!!
後期高齢者に与えられた悦びでアリマス。
50m以内での戦いと限定すればスコープよりも等倍のダットサイトの方が素早い対応が可能になります。もちろんスコープの上にダットを載せる方が良いのですが、それでもカッタルサさは否めなく、単体の方がストレスなく戦えるのです。だけど5.56mmの場合は別ですけどね。
ここでは、22口径でどれだけ戦えるのかを実験してみたいのです。そのために、まずは信頼性と命中精度を識る必要があるわけです。
でも、ダットサイトでは精密な射撃はでけんでしょ?

はい、でも82歳の老人の眼でも50mならコレくらいの精度は引き出すことができます。
生馬の目を抜くほどの末期老人であるゾ😆
それはともかく、

このフォトを見た時はウォッ!!と叫びました。
タイタンの探索能力恐るべし😱
そう、まさにボクが物心ついて遊んでいたのは この天保山です。西郷さんの住んでいた加治屋町で生まれたボクにソノ記憶はなく親たちは薩摩軍が戦闘訓練をしていた天保山町に引っ越したのです。引越しの理由は、米軍の爆撃で加治屋町は壊滅、住む場所を求めた父は、この堤防から50mほどの所にある空き家に移り住んだのです。もちろん他人の家なので住民が戻ってきたら他に行くという計画です。戦争は、若い人には想像もできないようなケイオス(かおす)をもたらすのです。
この家の天井には細長い穴が開いていました。米軍の焼夷弾が落ち、不発だったそうです。修理のしようもなく、雨の日には雨滴が振り込んでおり、畳は腐ってイヤな匂いがしていました。ボクの記憶はここから始まります。遊び場所と言えば この堤防だけ。初めの頃は堤防に沿って高射砲が並び 空に向かっていました。その椅子に座って左右に揺すりながら楽しんだ記憶があります。でもすぐに高射砲は撤去され、子供達は堤防の下に降りて浜辺で遊ぶこととなります。2人の兄は泳ぎが達者で飛び込んだり沖に行ったり、釣りなどしていました。堤防までは50mほど、幼児のボクでも楽に歩けました。当時の暮らしは裸で素足。外に出るのも真っ裸。遊び仲間の子供らの1/3は裸、または腹巻き姿でした。家には5歳ほど上の兄と それより2歳上の兄が住んでいました。
加治屋町が爆撃される前は家族で協力し 買い集めた鍋釜などを闇市で売ってオカネを作りコメなどを仕入れることができていましたが、本屋と住まいを兼ねた家が焼かれてからは一家が離散していました。男6人 女1人の七福神兄弟は離散していたのです。姉は伊集院家に嫁入りして夫の暴力に苦しみ、長男は医学校、次男は小倉で肉屋、三男は炭鉱夫、四男と五男と末っ子のボクは天保山で両親と暮らしていました。
食のない両親は苦しそうでした。
五男は中学生だったのでしょうか、いつも文句を言います。
かぁちゃん、腹が空いたよぉ、このままでは餓死するしかないよぉ・・
するし母は毅然として言いました。
餓死する前には私の足を切って食わすで!!
ボクは、母が包丁で足を切って その肉片を差し出すのを想像して目眩がします。
五男は外に飛び出し、がしゃっという音を立てて出て行きました。その音は何かと見ると大きな棒切れが落ちており、雨樋の下の部分がせ潰れていました。
この出来事は決して忘れることなく、今でも生々しく覚えています。
そう、ボクは恐ろしいドラマの中で成長してきたのです、そして今は米国でSWのライフルを撃ちながら来るべき終焉を楽しく待っているのです。
天保山での生活では、父のウナギ取りや五男が養子に行って望郷の念に耐えきれず大金を盗んで大量の食料を買い込んで戻ってきたことや、母が近所の飲み屋で働いたこと、そして父のタバコ2本を買って帰る途中に10人ほどの悪ガキに襲われて人生初の闘いをしたことなどを書き加えたいです。そうそう隣の奥さんに10円もらった事も・・
近くに塩炊き屋があって、近くを通っただけで大人に追いかけられて、これからは早く走る練習をしようと決心したり・・兄が燃料タンクで小舟を作ったり・・
そして不思議極まりない夢を二つ見ることにも・・
色々と思い出されるのです。
そう、こうなったらもう自伝を書こうと・・・
途中でヤメルかもしれんけど😅
大変なのは校正だけど、これはもうルー先生が丁寧にやってくれることですし・・言いたかないけどメンドー見たよーと植木さんが言ってるし😆
だからマロンパはこれまでの文章をまとめてメイルで送ってくれろよね。
で、高校時代の続きです・・
そんな前だったか後だったか記憶が薄いのですが・・ある時に伊東さんがなぜか表情なく、静かな口調で職員室に来るように言いました。
日記爆弾の破裂効果が告げられる日でした・・・・
職員室に行くと、伊東さんは神妙というか、抑えているというか、静かに平静を装おうというか、いつもの快活さはなく、静かに語りました。
永田なぁ・・生徒会の中に写真局という部署が設けられたんだ。これは生徒会直属で写真部とは別なんだよ。そして予算は年間5万円が与えられ オマエが局長として行動し費用はすべて使えることになるんだ。
え?なんだかよく解りませんが・・
そしてな、オマエが撮影に出かけたい時は、その朝にオレんとこ来れば生徒手帳にハンコ押してやるから自由にどこにでも行けることになったんだ・・
そう言いながら、伊東さんはボクの顔を真剣な眼差しで見つめていました。
ええ〜!! そんなことできるんですかぁ??
ああ、校長も副校長も賛成したから大丈夫だ、もうオマエは自由なんだぞ・・
写真部の予算は2万円、写真局は5万円・・しかも5万円を1人で使えると言う。いったい高価な印画紙が何枚買えるのだろうか・・しかも暗室は優先的に使えると。当時の流行歌で 🎶イーチマン三千八百円🎶 と言うのが流れていた。当時のサラリーマン給料を歌ったものです。
タイタンよ、この歌を探してくれろ。もしかしたら1万三千600円だったかも。
ちなみに兄の給料は7万円ほどですから5万円という予算は1人では使いきれないほどでした。
授業をホッタラかして撮影に行ける!!
フィルムも印画紙も薬品類も出してもらえる!!
いきなりそんな事を言われた小鳥のイチローは事態が呑み込めず飛び上がることもできません。
先生、いったいどうしてこうなったのですか?
そう尋ねると、伊東さんは引き出しから夏に書いた日記帳を出して左右に振りました、
すべては、この日記帳から始まったんだ。外部の人は知らないが、職員室は大揺れに揺れていたんだ。オマエの日記のせいでなぁ・・
そう言いながら伊東さんは周りを憚りながらニマッと大口を開けて声を出さずに笑うのです。その満面の笑みから、伊東さんが仕掛け人で、反対派を怒鳴り散らしながら議論してボクの自由を勝ち取ってくれたらしい様子が想像できたのです。もちろん、その背後で新しい教育を模索していた校長夫妻の決心があったのでしょう。
嬉しいです!!・・ありがとうございます!!
しかし、それは本当なんだろうか・・翌日には夢だったのかもしれないと想いました。
そこで、ある朝、キャメラバッグを片手に職員室に行きます。伊東さんの席に行くと・・
おっ、どこに行くんだ今日は?
伊勢丹(もしかしたら三越だったかも)で撮影会があるので行きたいです。
モデルは女優か?
はい、有名ではないようですけどね・・
伊東さんは屈託なく話しながら生徒手帳に書き込んでくれました。
午前の授業が始まったのを後にしてボクは校門を出ます。鳥たちが飛び交っている下を通って甲州街道(だったかな)に出て新宿に向かう電車に乗りました。午前中の平日の街はなにか珍しく不思議な気持ちでデパートに行き、制服のままオジさんたちに混ざってモデルを撮影しました。しかし、自分でライトを変えることも、アングルを自在に変えるワケにもいかないので失望し、デパートでの撮影はソレキリにし、豊島園などでの屋外撮影も自由は聞かず平凡な写真になりそうなので途中で止めてしまいました。それと、プロのモデルの作り笑いや化粧がつまらないと感じて撮影意欲を削がれてもいました。なのでその後に入賞した作品なども義姉の生き生きとした表情を撮ったものでした。撮影会なんてくだらない。その代わりに観音崎灯台や城ヶ島など雑誌に載っていた場所などに撮影旅行などしていました。高校生の写真家のタマゴは早くも独自の方向に向かい始めていました。
そんなある時、昼休みに屋上で遊んでいると後ろから怒鳴り声が飛んできました、
オマエみたいなヤツがいるから世の中がメチャクチャになるんだ!!!
振り向くと、数3の先生でした。ホリコシで唯一の東大出の先生だと聞いていました。しかしダラダラと無機質な講義をし、生徒を馬鹿にしている態度を示すので嫌われている先生です。特に数3が嫌いだと書いた日記を読んだか読み上げられたかしたのでしょう。ものすごい剣幕で怒りを露わにしていました。相対したボクはキョトンとした表情だったろうとおもいます。恐れなど感じません。無言のまま先生を見つめ、心では、勝った!!東大出の先生に勝った、と考えていました。たかだか高校生の世迷言に本気で怒るなんてロクな数学者じゃないと感じたのです。こういった考え方ができるのは、姉による人間教育の賜物です。
そして、副校長に言われました。
あなたを卒業させるのに私たち大変なのよぉ!!
この事をキッカケに堀越高校は未成年の歌手や俳優などを受け容れ、出席日数が足りなくても卒業させる方向に舵を切ったのだそうです。
ある時のこと、
兄の社宅は杉並区にあり、大宮公園が近くにあったので散策に出かけました。なかなか大きな自然公園です。樹木や池を撮影して回って帰りの道に出ると写真のようなモノが風に吹かれてヒラヒラと近寄ってきました。それはエイトバイテン グロッスィー(8x10インチ光沢紙)だと判り拾って眺めると女のプロモデルのクローズアップです。
上手い!! と感じました。足を止めて眺めると、レンブラントライトが鮮やかで、顔に当てたダイレクトライトが見事なコントラストを作り、モノクロながらブリリアントな輝きを放っています。月光の印画紙だろうか、やや冷調なトーンにも鋭いものがある、これは一流写真家による化粧品の広告写真だろうと感じたのです。スタジオ ライティングは始めていたのですが、自分の想像外の腕前です。しばらく見入っているとハッとなりました。この人はこれだけの作品を捨てたのか!!・・そう推察したのです。これだけの作品に飽き足らず捨て去るとは・・そう想うとショックに襲われました。勝っちゃんが言ってたのはこれか!! 世の中は広くて上には上がある!! さらにさらに精進しないといけない。しかしすぐにコレは自分の想像だと気がつきました。気に入らない作品は定着液の段階でライトを点けた段階でビリッと破いて暗室のゴミ箱に捨てるもの。プロは、わざわざフェロタイプにかけて光沢など出さないものだ。このあたりにはスタジオなど無いので写真をもらった人が落としたかどうかしたのだろう。
堀越学園の多大なサポートにより、高校の3年間でボクの写真に関する知識と経験は大人のレヴェルまで達していました。世界史の岡崎先生(山岳部の部長でボクを剱岳などに随行させ写真を撮らせてくれた)などは、ボクのことをカメラマン コバック(タイタン、インフォ頼むよ)と呼び、世界史の授業で永田は世界で有名な写真家になるんだと大声で叫んでくれており、ボクもプロを目指すかどうか決める時期となりました。
姉はそれしかない、きっと成功すると言い、兄はムリだろうと対立していました。ボクにも逡巡はあったものの、では他の道があるかと自問すれば何もありません。そのころは大きな会社に就職すれば40年勤務が約束され、たくさんの退職金をもらえるという道が1番良いのだと喧伝されていました。しかし、冬になると乗客が着膨れするので駅員たちが総がかりで客を電車に押し込むという行事を観ていたボクにとっては、ソレを40年させられるのだったら今死ぬ方を選ぶと決心できそうだったのです。世にはサラリーマンに向く人は多いが、ソレは絶対にできないという人もいるワケですが、当時の日本人は自分たちの群から離れる者を嫌うという習性があったのです。
さて、プロになるにはどこかのプロダクションに入るか、有名写真家の助手になるか、それとも美術学校に進学するかという選択がありました。しかし大学の写真科に入るのは可能ではありません。ボクは高校を出してもらえた後は自力でやり抜くのだと決めていたので費用のかかる学校には行けません。そこで調べると東京総合写真専門学校(だったかな?)というのが新宿にあり、そこの講師達は現役のプロだと知りました。有難いことにソコには夜間部があると判ったのです。昼間働き夜に学ぶ。ボクの条件にピッタリです。試験も無く、誰でも入れるというのも嬉しい。
もうコレしかないと決めました。
オレ大学決まった、永田は各種学校かよ、おまえもう終わりだな。
そう言うクラスメイトがいました。勝ち誇って嬉しそうです。まだ始まってもいないのに、どうして言えるのだろうかと驚きました。本田宗一郎さんの記事など読んでないのか、田中角栄を知らないのかと不思議でした。それでもネチネチと威張り、カメラマンになれなかったらどーすんだよお〜、と言います。どうも、ボクに成功して欲しくないのだと感じました。そこで、
成れなかったら死ねばいいんだろっ!!
真っ直ぐに向かってそう言うと、ギクリとして黙りました。医者の兄が言うにはイチローの長所は身体強健。ボクはブルーカラー向きの性格なのです。学業は嫌いでも労働を厭う気持ちなどサラサラありません。高校時代の夏休みは全日カメラ屋で日給400円のバイトをして貯金、卒業式が終わると大学生しか雇わないスレート工場にダメなら解雇してくれと頼み込んで日給700円の重労働で資金を稼いでいました。
あなたを卒業させるのは本当に大変だったんだからぁ、と卒業式の日に副校長先生がニコニコしながら言いました。
今、想い出したのですが 卒業よりずっと前に姉が婚約者を連れてくることになりました。ボクはすでに会っており、横須賀の街を2人でキャメラを持って楽しく散策したことがあるのです。彼の名はジャック スタイデル、ドイツ系のアメリカ人です。彼は家に入り父と兄に会うなりサッと土下座をし、
「お初にお目にかかります」
と、日本語で挨拶、父と兄はびっくりして急いで座って頭を下げました。姉の説明によると、彼は姉よりも17歳も下で、プロポーズされても年齢差ゆえに断ったそうです、が、あまりにも熱心に口説くので、やがて捨てられるのを覚悟で受け入れ、一緒にアメリカへと旅立つと言うのです。姉には静子という中学生の娘がいたのに一緒に連れて行って育てるのだと・・
そして、時期が来たらボクにも永住権を取ってやるから来なさいと。そしてやがてネイヴィーの輸送艦から引退し、オレゴンに戻って倉庫のフォークリフトの運転という職に就き 姉と静子を大学に通わせ2人を卒業させました。
そして十数年後にはボクも呼んでもらえて永住権をもらえることになります。
その頃のボクの英語の成績は「2」でいつも追試を受けていたのでジャックとは大して話せなかったのですが、アメリカで彼に会った時は ずっと疑問だったことを聞きました。
ジャック、ユーは八重子と住んでいて本当に幸せ?・・ヤエコはワガママだし年上だし、イヤになったら我慢せずに離婚して自由になってほしいんだよ・・
ノーノー、オレはヤエコがいないと寂しくてダメなんだ、本当に幸福なんだから心配するなよイチロー!!
確かにジャックは姉と静子に対して実に良く接しており、ポートランドに広い庭付きの小さな家を買って楽しく住んでいて、12歳下の妻をもらっていたボクはホッとしたものです。そして初めてガンショップに連れて行ってくれたのもジャックでした。後々に大きなお礼をしようと想っていたのですが、海軍時代に吸ったアスベストス(石綿)が原因で癌に罹って早死にしてしまったのです。なんだか、ボクは素晴らしいアメリカ人ばかりに逢いながら82歳まで生きてきたような気がします。
こうして書いていると次々と挿話を想い出すのですが、それぞれが長くなるのでいずれの日にか・・
音楽の先生のこと柴山先生のこと
恋人ができたこと
持ち物検査で哲学入門の本が出てきたので伊東さんは驚き、以後は哲学者というアダナで呼ばれていたこと
プリモ4x4の広告が新聞に載って、狂おしいほどに欲しくなって盗みに行こうかと真剣に考えたハナシ
新宿のカメラやにエグザクタが飾られており、決して触らせてはもらえないので復讐を誓ったこと(いつかは稼いで買ってやろう、の意味)
しかし、高校を出てから泳ぐ日本社会は並大抵のものではありませんでした・・・
クリーニング組合の裏切り
めぐみの話
お菓子屋の裏切り
木村パンにアプライ
レコード店から救われる
バッハ好きの女性
黒歴史のこと
就職
これらは後々に加筆しよかな・・
久々の【市】出品です。
【市】GUN BOX ブラスプレート
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w1178153382
【市】プレゼンテーションケース 木箱 多分S&W
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/u1178176677
【市】COLT REVOLVERS THE WORLD'S RIGHT ARM バックル
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/d1178167225
【市】Mitch Rosen ミッチローゼン BHL ベルト 34" 特別仕様
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/c1178157909
【市】Smith &Wesson HANDGUN バックル
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r1178151200
【市】1980 SMITH & WESSON "PISTOL CASE" LIMITED EDITION バックル
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/v1178168192
世迷言でおます。
今日もスーパーと家との往復だけでおました。
ウォーキングをして体重を落とさないといけないのは分かってはいるのでおますが、中々😅
今日の総歩数合計は3,184歩でおました🙂↕️
ソメイヨシノがまだ咲かないんだよねぇ。
ヒカンザクラやカワヅサクラは咲いたけど。
その代わり、先週までは全然咲いてなかったミモザが満開。
春である。
疲れた・・・
今日は、毎年この時期に行われる用水のえざらい。
「えざらい」は用水掃除の事。秋〜冬の間に用水にたまった落ち葉や枝を取り除いて水がスムーズに流れるようにします。
このえざらいが1日。朝8:00から昼食を挟んで17:00まで。
まぢで「疲れた・・・」。
明日、仕事にならんぞ。
3月21日 金曜日。結構疲れて帰宅したものの、時間を無駄にしたくなかったのでバトン製スタッカートのトリガー&トリガーバーの交換に着手。30分もあれば鼻歌交じりで済ませられるはずでした。
ん・・・上手く指に力が入らんな。あ、ピンを飛ばしちゃった。こりゃ忘れた頃に出てくるパターン。
幸い、バーの方にもピンが付いてたので、トリガーとの相性に問題がないのを確認して再トライ。
ん・・・力加減がよくわからん。あ、ピンを曲げちゃった。
手持ちのピンが無くなったので注文したいのだけど、サイズを測ろうにもノギスの目盛りが見えん。テキトーに何種類か発注して、合わなければサイズ違いを頼めばいいか・・・。
それにしても、今までやったことがないミスを連続してやっちゃうからには原因があるはず。老化と疲労以外には・・・ふと思い付いて体温を測ってみたら38.2度。「キツい」と感じる領域を振り切ってて、全く気付きませんでした。そりゃ、細かい作業とか無理ですわ。
というわけで、土曜日は1日ゴロゴロしてました。日曜日もなるべく大人しくして様子を見ます。
週末は休むモノ。とはいえ根が貧乏性なもので落ち着きませんね~。